沿革

観定寺の歴史

観定寺の歴史は古く、その淵源は寺に隣接する大江神社にあります。
大江神社の縁起では、天平一二年(七四〇年)、宇佐宮(全国八幡社の総本社)に寄進された一〇郷のなかに大家郷があり、天平勝宝年間(七四九~七五七年)、それらの一〇郷に八幡宮が勧請され、大江八幡宮もそのときに創建されたと伝えられています。大家郷は現在の沖代全域の村落であり、大江神社の「大江」は「大家」がなまって変じたものであるとされています。
この大家郷、大江神社の歴史は、渡辺重春の『豊前志』に詳しく、神社の歴史とともに中津城築城前の大江神社の神域の広さや、金谷堤建設前の大家川流域の様子などが刻銘に記されています。社地は「大江が岡」と呼ばれ、特に杉や松が神社の宮地に神々しく立ち、大変美しい宮地であったそうです。

観定寺は、この大江神社の社寺として創建され、平安時代は天台宗の寺院であったと伝えられています。宇佐八幡宮のあるこの地においては、古く奈良・平安期から神仏習合の歴史が息づき、観定寺も大家郷の郷社とともに、地域の宗教行事(祭事・催事)における重要な役割を果たしていたことが推察されます。
※江戸享保年間以前(元禄年間)の大火で観定寺は全焼し、寺史の詳細を記す資料が存在しません。戦国期に黒田孝高・長政の統治のころの豊前史・中津史、その他の史料から今後調査を進めていきます。中津城は天正一五年(一五八七年)から築城が開始され、翌年に完成しています。

社寺としての長い星霜を経て、十五世紀後半から十六世紀のはじめくらいに、観定寺は天台宗から浄土真宗(興正寺門徒)へと改宗します。
現在、観定寺にはその歴史を語る開基仏(方便法身尊像)が伝えられており、裏書には本願寺宗主実如(一四八九年~一五二五年)から、「興正寺門徒豊前国下毛郡大家郷海津村 願主釈浄西」に、永正二年(一五〇五年)七月十四日に下付されたことが記されています。お寺には萩の端坊において配布下付されたことが伝えられています。(金龍静本願寺史料研究所副所長来寺、及び史料調査の結果判明)
「今日、宗主実如期に授与したとされる本尊・影像の類は全国で一三〇〇点余りにのぼり、豊後での発見例は九点、豊前で七点あり伝承を含むと総数二十九点ほどが二豊の地(豊前・豊後)に集中している」(『九州真宗の源流と水脈』「豊後(大分県)からみた真宗の縮図―近世前史の真宗と世情の諸相―」本多正道氏著)とのことであり、観定寺の開基仏もこの一つに数えられています。

本願寺門末としての開基「釈浄西」を第一世として、現在まで門信徒の手によって観定寺は、親鸞聖人のあきらかにされた浄土真宗の教えを伝え、その歴史を歩んでまいりました。
現在の住職は第十七世となります。


本尊・阿弥陀如来

 

浄土真宗の御本尊を安置する観定寺の本堂は、江戸時代享保年間に建立され現在に至っています。その歴史が本堂の棟札に記されています。

(棟札)
上棟銘曰
伏以讃云於 諸佛之護念證誠者 悲願成就之故者 得金剛心人 可報弥陀大恩 故号悲願成就山諸佛護念堂矣 事実不遑書應知旹享保廿一歳丙辰夏四月十一日功畢
觀定寺現住香雲敬白
願主 惣門徒中
木工寮
薗田弥兵衛尉重則
奥村徳左衛門尉元治
材木施主 一戸邑 浄信

(書下)
上棟ノ銘ニ曰ク
伏シテ讃ヲ以テイワク 諸佛ノ護念證誠ハ 悲願成就ノ故ナレバ 金剛心ノ得ン人ハ 弥陀ノ大恩報ズベシ 故ニ悲願成就山諸佛護念堂ト号スト 事実書ニ遑アラズ 應ニ旹ニ享保廿一歳丙辰夏四月十一日ニ功畢ンヌコトヲ知ルベシ

(意訳)
謹んで、宗祖親鸞聖人のご和讃をもって申し上げます。
諸佛の護念が証されるということは、佛さまの悲願が成就しているからであります。
よって、何よりも堅い金剛の信心を得た人は、阿弥陀さまのはかりしれない御恩を報じなければなりません。 
このご和讃のおこころをいただき、このお御堂を「悲願成就山諸佛護念堂」と号します。一つ一つの事実を書き記すいとまはありませんが、ときに享保二十一年(一七三六年)丙辰夏四月十一日に、この尊い事業が成し遂げられたことを必ず知っておかなければなりません。
觀定寺現住職 香雲敬って申し上げます。

(觀定寺記)
大正十三年頃、父(觀定寺第十五世琢成)ノ話ヨリ調査ノ結果上記ノ銘ヲ発見
昭和八年八月後日ノタメ寫ス  
詮成(觀定寺第十六世住職)記

古く観定寺に言い伝えられてきた「上棟の銘」の言葉が、調査の結果発見されたことを、第十六世住職が、昭和八年八月に写し残しています。


観定寺歴代

 開基 淨西
 二世 淨喜
 三世 覚春
 四世 賢惠
 五世 周月
 六世 賢良
 七世 義津
 八世 香雲
 九世 廣惠
 十世 聞慶
十一世 一道
十二世 大成
十三世 圓成
十四世 惠教
十五世 琢成
十六世 詮成
十七世 憲成